過日

手紙の代わりに

これからのこと

 SNSから離れてしばらく経った。TwitterとかInstagramとか。これまでは、ほぼ毎日のように触っていたし、投稿していたりもしたから、たった1ヶ月くらいのことだけど、ずいぶんと長いこと触っていないような気がする。今、どうしてそんなことをしているのかというと、これまでしばらく続けてきた「つぶやき」とか「ストーリー」のような瞬発的、瞬間的にできる表現を自分がすること、そして、他人のそれを目にすることにも疲れてしまった。たぶん、そういったものにとくに囚われてしまいやすい性格なのだろう。ほとほと疲れた。そんな、ある日、思った。「ゆっくりと本が読みたい」

 学生から丁稚奉公あたりまでの頃を思いかえしてみると(書店丁稚であったことも手伝って)、少なくない数の本を読んできた。だからというわけでもないけれど、基本的には長まわしの表現が好きだ。消費するのに時間がかかるやつ。例えば長編小説とか映画のような “推敲が重ねにかさねられた” 表現や、クラシック音楽とか古典芸能みたいな “ある一定の時間経過によって精査されてきた” 芸および芸術が好きだ。僕は久しぶりにそれらを生活の中心に据えてみたくなった。考えてみたら、ここ数年間で腰を据えて小説を読んだ記憶すらない。自分の目に入れる誰かの表現についてもそうだし、自分自身がする表現についてもそう。しばらくのあいだはあえて絞ってみようと思った。

 そんな心境とリンクしてか、「場所」での表現に関するものにも変化がある。僕はこれまでいわしくらぶという場所で、これまであらゆる表現を試みた。それは、ある種の軽快さを伴った表現だった。それには学生のころから通っていた地元(北海道・北見市)のとある喫茶店の影響が強い。その店は1980年代にオープンした喫茶店で、アンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインなどのポップアート作家から強い影響を受けている。そんな店に足繁く通っていたのもあり、僕がいわしくらぶで目指した表現や世界観は、そこに近いものがあった。その好みが年齢を重ねるについれて、少しずつ変わってきた。来年以降は、ある一定の重みのある表現を、京都という土地で試してみたいと思っている。いわしくらぶを10年やってきて、そろそろ自分は次のフェーズに進まねばならないんだろうな、という直感がある。これまでは様々なことを少しずつ、同時に進めないと生きていけない環境だった。自分は表現者である、と同時に、スポンサーでもあった。ディレクターでありながら、プロデューサーでもあった。CEOで、COOでもあった。それらに少しずつ足を突っ込んできたおかげで学べたこともたくさんある。それは素晴らしい体験だった。けれど、そこからさらに一歩、先へ行こうとしたら、自分だけでは進めなかった。無理だった。だから、これからは同じ目線に立って歩ける仲間と進んでみようと思う。苦手なことは任せたり、分担して、自分は自分の得意なことに集中する。貢献する。経営者の仕事はしばらく休んで、いちプレイヤーに戻りたい。戻ってしまおう。経営者とプレイヤー。それぞれの人格を器用に切り替えられたらいいのかもしれないけど、自分にはそういうのは無理そうだ。そんなわけで近ごろは、SNSと会社から、少しばかり距離をおかせてもらっている。