言訳過日

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「吸わない煙草」KYOTO FRAGMENT ART PROJECT出展に寄せて

先日「(6月にお店を開くまでの)お店という方法でない3つの大きな仕事」、そのうちのひとつが終わった。今回、京都は円山公園で行われたKYOTO FRAGMENT ART PROJECTで発表した作品「吸わない煙草」のことだ。この作品は昨年末、相方のキルタと京都滞在をしていた最中に生まれたもので、きっかけは酔った僕が “小さな石庭” を思いついて、その場でつくりたくなって、風炉灰と真鍮の鉢で即興でつくったものが着想の種だった。煙草というものは、ほとんどの場合において「吸うもの」だと認識されがちだが、吸わない煙草すなわち「焚く煙草」や「目でみて楽しむ煙草」があってもいいんじゃないかという考えから生まれた。実際、そのとき酔っ払った僕らはその「吸わない煙草」をみて感動した。それでまるで小さな石庭に雪が降っているような、いわば景色になっていて、僕らはどこか京都の寺のひとつに迷い込んでしまったかのような錯覚に囚われた。そう思えたのは、僕たちが禅や茶の湯の世界に強く惹かれているせいも多分にあるのかもしれない。「吸わない煙草」このネーミングは、僕らがこれまでつくってきた(そして、今もつくっている)「吸うお茶」にぶつけたものでもあるのだが、今回の出展を通して「吸わない煙草」のもつ公共性、言い換えると「吸う煙草」の私事性が明らかとなり、我々も予想しなかった反響がおおく、正直なところ驚いた。京都の公園の中でも最も古い歴史をもつ円山公園音楽堂という、非常に公共性の高い場所で、老若男女がさまざまな種類の煙草の香りを愉しみ、煙のゆらぎを眺め、その身に浴びていた。それはまるで茶室に集まった人々が茶釜から立ち登る湯気越しに、苔むした庭を眺めているような、そんな時間のようでもあった。あの場においての「吸わない煙草」は、ほんのひとときその俗物性を奪い取られ、いわゆる世間で(文字通り)煙たがられる「煙草」ですらなくなり、一種の香木や聖水のようにたいへん神聖なものとして扱われていた。いや、待てよ。元は煙草だって、大変神聖なものであるはずだ。それはアイヌにおける魔除けであり、ネイティブアメリカンにとっては「大いなる存在」への捧げ物である。それを僕たちは単なる金儲けの道具として、あるいは徴税のための手段として使っているだけではないか。本来は神聖な存在であるものを、その汎用性の高さから、俗物的に扱いすぎてはいないだろうか。図らずも、僕たちは今回の展示を通して、そんなことを考えることになってしまった。結果的にではあるが、僕らにとって「吸わない煙草」とは煙草のもつ神聖さ、その本来の姿を再確認するための作業であり、儀式でもあるのかもしれない。