日記

在家のまま禅を学んでいます

お月さんはどこいった?

07:00起床

昨夜、一時間ほど坐禅を組んだせいなのか、今朝はおきぬけのモヤモヤはなく、ただただ眠いだけだった。坐禅の最中、どこからか感謝の念が湧いてきて涙がぽろぽろと流れた。一時間も座ったのは初めてな気がするけれど、体感以上にあっという間で不思議な感覚だった。

 

起きてすぐシャワーを浴びて、髭と頭を剃る。はじめは怖かった自分自身での剃髪も慣れてきた。朝の座禅のまえにタバコを吸いながら一冊の本を手にとる。1900年から1988年まで生きられた臨済宗の僧侶・山田無文氏の『愛語 ---よい言葉をかけて暮らそう』だ。この本は16歳のころ初めて手にとった。丁稚奉公をしていた書店「読書のすすめ」で当時販売していたのだ。この『愛語』と対になる『和顔』という本もあって、その2冊が並んでいる姿が美しかったのを覚えている。

 

たまたま開いたページにこんな話があった。

 

昔、猿の群れが山の中にいた。井戸の中にお月さんが映っているのを見て、猿の仲間が考えた。「こりゃ、大変なことになった。お月さんが井戸へ落ちてしまった。あれを拾ってもう一度天に上げんと、世の中が暗くなってしまう」というので、猿の王さまが右の手で木の枝にしっかりつかまって、左の手を下へ垂らして、次の猿がその手を握ってまた手を下へ下げて、猿が何匹も手をつないで井戸の中のお月さんを取ろうとした。が、なんぼつかまえようとしても井戸のお月さんはつかまえることができなかった。やがて、自分たちの体の重みで木の枝が折れて、猿は皆な井戸の中へ落ちて死んでしまった。

 

井戸の中の月をとらえようとしても、それはなかなかできることではない。それはあくまでも水に映った月だから。人々(にんにん)の心の中に月のようなきれいな心が一つある。その心をどうしたらつかまえられるか。いくら挑んでみてもつかまえることなんてできない。しかし、つかまえようと思っている、その心が月(=宝)なんだ。その心こそが宝である。自分が求めている心がそのまま宝だったと悟るよりほかに、その心をつかまえる方法はない。

 

この部分を読んで、ときどき受ける相談のことを思い出した(自分よりも年齢の若い人の相談に乗ることがたまにある)。みんなの話を聞いていると、どうも自分の外になにかを求めている人が多い。「自分のなかには何もない」そう思っている。かつての自分もそうだったように思う。だけど、そんなことはない。一人ひとりになにか宝があって、結局はそれを知るより手立てはない。自分のなかにある宝にいかに気づくか。ここが問題なんだ。

 

さて、昨日お店のホームページが公開されて、いよいよ本営業が開始となった。ありがたいことに今日も予約が入っている。感謝、感謝。予約がない日は本営業とはべつにこっそり特別営業もすることにした。友人や京都に住んでいる人たちにきてもらえると嬉しい。

 

このあと友だちと会う約束。なにやら実家の家業の写真集をつくるらしく、そこに映り込んでもらいたいということだった。まあるいお月さんみたいな僕の頭が、友だちの実家の写真集に収まってるの想像するとなんだか笑けてくる。さて、今日も坐るところから始めよう。