覚書

07:11起床。

数日ぶりの日記。

 

今月11日に取材を受ける。Ochillでは基本的には取材は受けないようにしているのだけど、今回はそもそも自分たちが好きなメディアであり、お世話になっている方からの依頼だったので受けることにした。そこでOchillについて改めて考えてみた。

 

以下、Ochillに関する覚書となる。

 

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「Ochillの掲げるwell-downとはperspective(視点)だ」

 

というのがOchill共同代表・中沢の考え。well-downはwell-beingに対して、2020年に中沢が言いだした言葉で、当時の僕たちの態度をよく表していると思う。ちまたに溢れるwell-being的存在に対して、どこか疲れ、苛立っていた。

 

今になって考えると、中沢がwell-downで言わんとしているのは、禅でいうところの「知足按分」だ。足るを知り、己の境遇に満足すること。仏教書や禅書が好きなぼくにはどちらかというとこの「知足按分」という言葉の方がしっくりくる。

 

well-beingと似た言葉に「Wellness」という言葉がある。1960年代にアメリカで提唱されたこの「Wellness(より良く生きようとする生活態度)」という考え方は、あくまでも資本主義というゲームへの参加を前提としており、健康寿命を伸ばすことで社会全体の消費行動の総量を増やすことを目標としている。Wellnessという “聞こえ” のいい言葉を並べたのはいいが、じつは本質的な健康については考えておらず、ただ、自分たちの手元の数字を膨らませるためのキャンペーンではないのか?と勘ぐってしまう。自分たちが実験室のカゴの中にいるラットに思えてきてしまうのは、妄想が過ぎるのだろうか。

 

Ochillからこれから発表していく作品群はそんな資本主義社会に---膨らみ続けることを前提としたゲームに---対して、ちょっと離れたところにいる(つもりの)僕らから「ちょっとここらで一休みしてみてはいかがですか?」という提案だ。ちょっとお茶でも飲み、いや、喫いませんか?と。吸わない煙草も然り。人生には休息が必要なのだ。それも、もはやちょっとやそっとの休息では間に合わない。もそっとした休息が必要だ。

 

今の世の中に蔓延るゲームに長く参加し続けていると、参加していない間が不安で不安で堪らなくなってくる。しかし、ときどきエイヤッとその身を投げ出して、しばらくゲームの外に身を置いていると、不思議と落ち着きを取り戻す。むしろ懐かしい感じすらするかもしれない。僕はそれが本性だと思う。その本性こそずっと捕まえておくべき感覚なのだと思う。

 

落ちて、落として、落ち切ればいい。余計な見栄や虚栄心は脱ぎ捨てて、本当に必要だと思うものだけを選んで歩いてほしい。人が人として、それぞれの本性に立ちかえる運動を、僕らOchillはアートを通して京都から始めたい。