日記

在家のまま禅を学んでいます

親鸞と道元

0459起床

0510坐禅

0550調理

0600読書

0630執筆

0700朝食

0730片付

0800掃除

0850出勤

0900仕事

1000掃除

1200昼食

1300片付

1700準備

1800実験

2100坐禅

2200帰宅

2210夜食

2230入浴

2300就寝

 

今日の予定。

以下、メモ。本を読みながら、考えたこと。

 

坐禅→読書→執筆

と、大事な順から取り組んでいくことで、時間を無駄にしない。

 

これまで北海道、東京、京都と店をつくってきた。

「移動しながら寺社仏閣をつくってきた」とは当然言えないが、その時々の感性が近いみんなとその地で協力しながら、みんなの心が休まる場所をつくってきた、と言える。

今回はその場所が京都。

自ら選んだわけではないが、縁によってここにやってきた。

仏教で言えば各宗派の本山、大本山、総本山がある土地だ。

そんな京都に店をつくるというのはなんだか面白い気がする。

どんな感じになるのか、自分ではわからない。

 

臨済は公案、禅問答。つまりシステム化されていて、ある意味知的。

曹洞は「只管打坐」。肉体派、体験派。

五木寛之、立松和平『親鸞と道元(祥伝社新書)』より

 

今日の天気はくもり。夜から雨が降るようだ。最低気温20度、最高25度。

朝は粥と漬けもの。

 

「仏道をならうというは自己をならうなり。自己をならうというは自己を忘るるなり」

自分の中に仏がいる。みんな本来仏性をもって生まれている。しかし、そこに埃が被っていて、なかなか見えにくい。だから、坐れという。坐った先に何があるかはわからないし、なにもないかもしれない。それでも、ただ坐ってみろ、と。心身脱落。いろいろとらわれている自分を捨てなさい。捨てられないけど、捨てなさい。煩悩即菩提。煩悩のない人間はいない。だから悟りの世界に入る。煩悩は菩提に入る道である。

 

曹洞宗を開いた道元と浄土真宗を開いた親鸞を対比して仏教の核に迫る、みたいな本を読んでるんだけど、本読んでるだけでも道元の厳しさにめまいがしてくる。多分、臨済宗の栄西も同じだ思うんだけど。翻って、親鸞はめちゃくちゃ親近感というか、在家仏教と言われるだけあって共感しやすい。仏教おもろい。

 

あーしんど。朝粥食べたら眠くなってきた。