安心する、ということ

0625起床

起きてすぐに顔を洗って、坐禅を組む。昨日は来客がなかったからか、身体が軽い。姿勢がカチッと決まって、呼吸が整う。数息観にも慣れてきた。

 

今日は安心について考える。

 

先日、とある起業家と東京の街を歩いていたときのことだ。彼女はこのような話をしてくれた。

 

「事業は大きくなった。人に任せられるようにもなった。だけど、心のどこかに不安感がある。安心できていない自分がいる。どうしたらいいでしょう?」

 

僕はその話を聞いて、うまく答えられなかった。いくつか答えらしきものが喉からでかかったけれど、結局何も言えずに彼女と別れた。

 

思い返してみると、僕にもそんな時期があった。自分のことを「起業家」だと思っていた頃だ。たとえ事業がうまく運んでいても、つねに不安感があった。

 

「商売をしていたら、不安感が拭えることなんてない」

 

かつての僕はそう割り切ってやり過ごしていた。諦めるしかないんじゃないかな、そう言おうと思った。

 

だけど、なにか他に答えがあるような気もして、まっすぐな目を向けてくる彼女に言うことができなかった。その日から、僕の頭の片隅に「安心」のふた文字が置かれることになった。

 

「安心ってなんだろう?」

 

昨夜もそんな疑問をもたげながら眠りについた。すると、今朝になってその安心の輪郭がなんとなく見えてきた。

 

安心とは、覚悟からやってくるのではないだろうか。例えば「すべてを失ってもいい」という覚悟。丁稚時代にこんな話を聞いたことがある。

 

「俺はね、今やってる会社が潰れてもいいんだよ」

 

丁稚時代、僕が奉公していた本屋にはこんなことをいう変わった常連さんがいた。当時その人は全国長者番付、生涯納税額ともに一位で、文字どおりの大社長だった。

 

「どういうことですか?」

 

何を言っているんだ、この人は。何十億もの年収がなくなってもいいわけないだろう。当時の僕はそう思った。

 

「会社が潰れてもまた裸一貫から始めたらいいんだよ。すぐに今のところに戻ってくる自信があるから、俺には」

 

「なるほど」

 

社長はレジ前に置いた椅子に腰掛けて、何かの話の流れでそんなことを言った。なんの衒いもなく。

 

安心は「すべてを失ってもいい」という覚悟と、「なんでもできる」という自信によって支えられている。では、その覚悟と自信はどうつけたらよいのか。まずは、今手にしている、しかし実際にはそこまで必要でないものを手放してみたり、自分がやってきたことを改めて整理してみたりしてもいいのかもしれない。

 

そういう意味では坐禅もまた役に立つ。少なくとも坐っているあいだは「すべてを失う」ことができるから。疑似体験みたいなものだ。

 

そんなことを坐っている最中に考えてしまって、今日の坐禅は15分で終わった。朝ご飯は米と味噌汁。味噌だけでなく、醤油も少し入れるとコクがでておいしい。外には雲の隙間から青空が見える。今日も予約がないので穏やかな一日になりそうだ。掃除や草むしりをしよう。