求めていた生活

23:51 京都の自宅にて。

7月末から今日まで長野・新潟への旅に加えて、さまざまなことが自分のまわりで起きていて、なかなか日記を書けるような気持ちになれなかった。今もなんとなく悶々としながら書いている。この日記もいっそのこと、完全に紙に切り替えてしまおうかとも考えた。まあ、いい。もうしばらく続けてみよう。とにかく整理する。まずは生活のこと。キルタがあらゆる手を尽くしてくれた(し、実際に助けてくれた人もいた)のだが、ついにOchillの資金も底を突いた。当然ぼくへの報酬もストップ。恥ずかしながら、東京の会社も赤字が続いており、僕はしばらく無給生活に入る。最低限の米や味噌、野菜はキルタが買ってくれたり、友人が送ってくれたりして、ありがたいことに飢えて死ぬことはなさそうだ。ときどき、肉を奢ってくれる人もいる。元々「修行生活」をするつもりで京都へとやってきたわけで、むしろ僕は深層心理ではこの状況を望んでいたのかもしれない。手放す喜びを知り始めた僕ではあるが、深層ではさらに手放すことを求めているのかもしれない。こうして毎晩布団で寝られて、坐禅もできて、勉強もできている今が本当に幸せなんだ。この環境に感謝して、できることを粛々とやっていこう。しかし早起きと坐禅に関しては、じつは最近サボりがちである。たぶん、慣れてきてしまったのだろう。前ほど興奮しない。しかし、それは当たり前のことなのかもしれない。本当の修行はここからなのだ。ここからがやっと坐禅の入り口。そのタイミングで藤田一照さんと山下良道さんの『アップデートする仏教』を読んだ。二人の対談を通して、現在日本の仏教社会の内情を垣間見る。もう求道者としてのお坊さんは日本にはいないのか。いや、そんなことはない。僕の直接知るお坊さんのなかにも、求道者としての姿勢を感じる方がいる。しかし、全体に比べたら圧倒的にその数は少ない。山本玄峰老師の『無門関提唱』もようやくやっと読み始めた。宗看先生に「読んでおくといいよ」と薦められた一冊だ。禅と茶。サボることなく取り組もう。奢ることなく学び続けよう。それにしても、現金がまったくないというのはなかなかに不便だ。若かりし頃の藤田さんや山下さんのように「何でも屋」でも始めようかしら。