日記

在家のまま禅を学んでいます

東京→京都

0659起床

シャワーを浴びて支度を始める。0900の新幹線に乗って京都へ帰る。帰りの新幹線で『退歩のススメ 失われた身体観を取り戻す(藤田一照 × 光岡英稔)』を読む。藤田さんの話しはまだわかるんだけど、光岡さんの話すことの内容が難しい。おもしろい、ということだけはわかる。おもしろい。ひと通り読みおえたし、しばらく寝かせて、またそのうち読んでみよう。

 

藤田◉エクストリーム出社だとか朝活禅だとか、いろんな言葉があります。僕自身が日本マインドフルネス学会の理事を務めておきながらこう言うのもなんですが、マインドフルネス瞑想にしても朝活禅にしても、それをしたからといって果たして仕事へ行く気がむくむくと湧いてくるものでしょうか。そんなにうまいこといくのかなと思うんです。

 もしかしたら、坐禅したせいで仕事するとか社会に役立つといったことがどうでもよくなる人だっているんじゃないかと思ってしまいます。瞑想や坐禅に関しては、お酒やタバコに書かれた警告みたいに「あなたのジョブライフのためにやりすぎに注意しましょう」とあらかじめ断っておいた方がいい(笑)。思ってもいなかった副作用ってものがあるからです。---104p 第3章|マインドフルネスと瞑想【本当は危険な坐禅】

 

光岡◉北海道のアイヌの集落に住みながら、アイヌ文化の理解を試みようとされている方に聞いた話があります。アイヌの人たちは狩りに行って獲物が獲れなかったら、「今日は欲しくなかったんだ」と言うそうです。これは気持ちを切り替えるというわけではなく、それが彼らにとっての事実なのです。つまり、鹿を獲れなかったことが「自分は鹿が欲しくなかった」ことを教えてくれ、獲れたら「今日は鹿が欲しかったんだ」と言うそうです。本当の自分ともうひとりの自分が他者としている。ひとりの自分は「本当は鹿が欲しくなかった自分」を観察している。それが文化として浸透しているからか「そうか、今日は欲しくなかったんだ」とみんなに理解されるわけです。---209p 第5章|退歩するということ【死ぬのに力が必要な時代】

 

あと少しで京都着。

12時から周戸さんとランチ。