日記

在家のまま禅を学んでいます

生活

0750起床

シャワーを浴びて、坐禅一炷。ひさびさのこのルーティーン。京都に戻ってきたなという感じがする。しばらくサボっていたからだろう。身体のあちこちに変な力が入っている。心が乱れているっぽい。やっぱりどこにいても毎日すこしは坐ったほうがいいのかも。

 

坐禅を終えて、「どういう生活が理想なんだろう」とぼんやり考えながら、本の山のなかから一冊の本を手にとった。

 

『茶味』(奥田正・方丈堂出版)

 

茶の師匠・吉田宗看の父である吉田晋彩先生からいつか薦められた本だ。初版は大正九年。僕の持っている本は平成版で一四年に印刷されたもの。内容は激渋。今どきここまで硬派な本もなかなかないような気がする。目次を眺めていると〈真の生活〉と書いてある。

 

一一七ページ、一二章〈真の生活〉から引用。

 和敬清寂の修から、精行検徳の証を得、その証の上に、更に修を高めつつ、わび茶の一道をたどる時、稽古の虚居は、生活の実位にうつり、賓主応接の礼、彼此談論の和は、法喜禅悦の道念を長じ、感謝報恩の行持となって、茲に倹素な生活が営まれる。

 正しい構の体を、清素な衣服で掩うことによって、端正な姿が得らるるが故に、衣服よりもまづその構を顧みる時、自己の醜き姿をそのままにして、徒らに流行を追い、錦繍を纏うて、その陋(せまし)を包み隠さんとする心にはなれない。材料は清素であれば結構で、之をぬい上ぐる一針一針に、思いのこもったものが貴いと思えば、夫には妻の心づくしになった衣服がうれしく、子には母の思いがこもった衣服が温かい。

 広壮華麗な家よりも、狭く小さい家を、清く快く住みなして、月の鏡に一家団欒の影をうつし、軒の玉水に終夜楽を聴くの喜びを分つ。身にふさわしからぬ物を、置くべき所もなければ、之を貯えほこるの煩いもなく、四季折々の花の一枝をめでて自然の清く美しき教えに導かれ、部屋狭けれど、和楽の風常にそよげば夏も涼しく、夜の衾は薄けれど、相思う情の厚ければ冬も暖かに、妻のすすむる食膳には、数うべき珍味もなけれど、三心の敬のこもるを思えば、更に之に宿る天地の恩と、人の労力とを偲んで、夫は己が徳行の全欠をはかって頂くを忘れず。さめたるものには心の温かさを加え、味うすきものには濃き思いを添えて、その心づくしを味う。これ等互の心づくしに、家庭の和敬清寂はみがかれ、次第に浄く明るく正しい境にすすんで、上に立つものは慈愛教導の外に余念なく、下に事うるものは信順奉仕の外に雑慮なく、純一無雑の真生活に入るのである。

 

と、一応写し書いてはみたものの、なんとなくしかわからない。すげえ硬そうなこと言ってる(笑)。師匠曰く「わからなくても読んでおけ」と。ハイ、というしかない。んでも、先生方の生活を見ていれば、「こういうことなのかもしれないな」と思う。決して貧しい感じもしないが、裕福な感じもしない。「目を鍛えるために」と言って、ふるい道具もたまに見せてくれるけど、当然それを自慢するでもなく、普段は質素な道具で稽古をつけてくれる。自分のことを棚に置いて他人を思いやり、優しいなかにも厳しさを忘れない。基本的に明るい。なんかこんな感じだよな。なにも特別な風景でもない。とはいえ、この特別でない風景こそが特別なんだ。たぶん。

 

京都は湿気が増してきたような気がする。真夏は過ぎたのかしら。さて、今日は台湾出張の準備だ。午前中から作業開始するぞ〜。