台湾出張を終えて

0339起床

一週間ぶりの自宅。ひさびさに湯船に浸かったあと、バスタオルを腰に巻いたまま気がつけばソファで眠っていた。目が覚めたときには夜が明けようとしていて空がうっすらと明るくなっていた。身体が凝っていて、僕はその凝りをほぐそうと思ってベッドへ向かった。ベッドで少し横になれば、その凝りもとれるだろう。旅行前に洗ったシーツや枕カバーが優しく肌に触れ、まるでそれらが主の帰還を歓迎しているように思えた。僕は横になったまま目を瞑り、ここ数日間の思考の軌跡を振り返った。

 

台湾でのことを振り返る。最終日にみんなでOchillのこれまでのこと、そして、これからのことを話した。とてもよかった。内容はいろいろ。Ochillとして果たしてゆきたい社会的役割からお金の使い方、それぞれの役割についても腹を割って話せた。Ochillはこれからどんどん良くなっていく(良くなるよう働きかけていく)。組織について話したことで、おのずと僕個人がどうあるべきかも見えてきた。それはつまりOchillと関係のない自分についても、ということ。いわしくらぶを一旦離れた僕が、これからの人生のなかで一体何がしたいのか。何をすべきなのか。まだはっきりとしたことは言えないけれど、なんとなく霞の向こうが垣間見えたような気がした。

 

京都に惹かれる自分。

坐禅に惹かれる自分。

それでも出家はしない自分。

 

在家で茶の湯を学ぶ自分。

文章を書き続けたい自分。

あいかわらず本を読む自分。

 

生活を求める自分。

お金がないことを楽しんでいる自分。

いまも自然に惹かれる自分。

 

いまのこの状況は、かつて東京に暮らし鳴り止まない通知と積み上がるタスクに追われる自分が、意識のどこかで求めていた自分だった。今あるすべてを手放して、それでも自分のなかに残るものを確かめたい。裸になった自分が、一体何者なのかを見極めたい。自分の核(コア)を覗いてみたい。そんな願望を抱いていた。そういう意味では、まだまだ核には至っていないかもしれない。でも、かなり近づいてきた。丁稚奉公時代に初めて出会って、京都に住んでから再開した「(坐)禅」という方法は、僕をそれに導いてくれる存在だった。だから僕はもう一度、頭を丸める必要があったし、自分がいま掴んでしまっている不要なものを手放す必要があった。それは、お金がある状態では見えないものだった。

 

実際、手放していないものはまだある。目に見えるものも、目には見えないもの(習慣や思考)も。まだまだ手放せるはず。こうして毎日日記を書いているのも、自分ではまだ気づいていない「こころの癖」に気づくためなんだと思う。そういう意味では、いまは書くことが僕のしごと。自分自身を検体として、あらゆる実践(インプットとアウトプット)を記録し、それに対する反応を観察し記してゆく。この実験の結果は、いつか誰かの役に立つだろう。台湾出張を通して、Ochillのみんなや台湾の人々との対話を通してこれらのことが確信に変わった。

 

もっと海外にいきたいし、いくことになると思う。Ochillという乗り物はそういう存在だ。そうすると、さらに自分が見えてくる気がする。落散はそういう場所なんだ。瞑想室であり実験場。誰かがだれかの核に出会うための部屋。

 

今月は16日から京都。