型のはなし

茶道のお手前をヒントにしながら、吸うお茶のお手前をつくっている。当然のことながら、これまで「お手前」というものを習うことはあっても、つくることはないと思って生きてきた。そりゃ、そうだ。お手前をつくるなんて発想がそもそもない。茶道のお手前だってじゅうぶん未熟だというのに、吸うお茶のお手前をつくろうなんて、とても烏滸がましいことに思えた。しかし、作らねばならない。なぜか。結局のところ、これは自分のためではなくお客様のためなのだ。お客様がそれをつくる所作をみて、安心してくれたり、「ああ、美しい」と感じていただくためにお手前があるのだ。僕は茶道のお手前についてもそう理解している(間違えてたら恥ずかしい)。そんなわけで、僕は途中からお手前をつくろうとすることをやめた。ただ、ひたすらにお客様に、来てくれた一人ひとりに心を込めて、今できる精一杯のおもてなしをすることにした。すると、だんだんと見えてきた。「こういう時はこのようにお出しした方が安心してもらえそうだ」「こっちの手順のほうが美しく見えるかもしれない」試行錯誤する日々。忘れなかったことは、対面する相手のことを思いながら精一杯やりきること。不器用ながらも、吸うお茶をつくり続けるうちに、いつしか決まってきた姿と形。だんだんと見えてきた型の元となる塊らしきもの。それらをさらに煮詰めて、固めて、叩いて、磨いたもの。それこそが本来の型なのかもしれない。しかし、まだ僕はその完成を見ていない。だけど、方法論としては間違ってはいない。そんな気がする。