型のはなし(後日談)

吸うお茶の点前をつくりながら、引き続き茶の湯の点前について調べている。そのなかで興味深い文章を発見した。茶道家の友人のつくった本に、点前のことについて書かれていて、たいへん勉強になった。一部を引用させていただく。

 

点法・点前(以下、点前)とは、お茶を点てる一連の動きのことを言う。かつては「手前」と書かれていたが、湯を転ずるという意味が強い「点法」「点前」と呼ばれるようになった。

 

点前は、自然と一体化する芸能である。

 

とある人は、「点前をすることは、朝起きて顔を洗い、歯を磨くことと同じだ。誰もが当然の如くしていることである」と言い、そして、「当然のことを、自然に行っているのだから、誰の記憶にも残らない点前が最上である。美しかったり、綺麗だったりして、客人の記憶に残ったら、それは失敗といえる」と言っていた。

 

点前とは、記憶に残らない、不可視の芸能である。型が決まっているが、その至上の姿は、水が方円に従ってその形を変容させるように融通無碍だ。

 

我々は、良いことをすると、つい誰かの記憶に残りたくなる。しれは茶の湯にとっては余計なことで、客人には「なんだかよく分からなかったけど、茶が美味しかったな」と思ってもらえたら、何よりの喜びである。

 

先日、『型のはなし』という日記にまさに “お手前” のことを書いた。そこで書いた僕のお手前の、いや、点前への認識は間違っていたことが、この本を読んでよくわかった。美しさを目指すべきでないのだ。あくまでも「自然」でなければならない、と。

 

一連の文章を読んで思うけれど、「自然」というのが一番難しい気がする。それは、美しさのさらに向こうにあるのもの、のように感じられる。その意味では、認識はそこまでズレていないのかもしれない。僕の目指していた「美しさ」は決して華美なものでなく、あくまでも自然のような美しさ、さりげないもの。

 

いずれにしろ、素人考えだけで進めていくのでなく、先達の残してくれた文献には引き続き当たらねばならない。まだまだ先は長い。

 

ちなみに今回引用させてもらった本は、商業出版されたものでなく、あくまでもその友人が自身とそのまわりの方々の稽古のために作られたものであるので、あえてこの場でその書名と著者名を発表することは避けておく。