北海道北見市に帰省しています。14日に飛行機で京都へ帰るつもりだったのですが、京都『落散』の営業を20日からに変更したので、16日までは北見で過ごそうと思い立ったのでした。14日正午に札幌駅前から北見行きのバスに乗った僕は、乗ってすぐさま弁当を平らげると、眠りにつきました。疲れが溜まっていたのでしょうか。目が覚めたときにはバスはすでに市街を抜け、ちょうど札幌と北見のあいだにある愛別町を通過しているところでした。
愛別町は、北海道のほぼ中央に位置する上川盆地の東北端、北海道の屋根と呼ばれる雄大な大雪山連峰の麓にある人口3000人に満たない緑豊かな町です。北見と札幌のあいだを往復すると必ず通過する町なのですが、高速道路から眺めているだけでもため息がでるような景色がしばらく続きます。ちょうど今時期は山の木々の紅葉が始まろうとしており、黄色に染まったそれを眺めながら、やはり僕はため息を漏らしていました。
「豊かだなあ」
声には出さなかったものの、僕の頭のなかにはそんな言葉が浮かびました。なんのことはない自然の風景。子どもの頃から見慣れているはずのこの景色に、感動すら覚えるのです。その瞬間、思いました。これこそが僕の感じる「豊かさ」の原点なのだ、と。きれいな水、澄んだ空気。色づく木々と、それが立ち並ぶ山々。それらを眺めていると、まるで自分の心までもが美しくなったような気がします。そして、こう思います。「自分にとって “本当に” 必要なものは、もしかしてほとんどが無料なんじゃないか」と。山を眺めて〈有料/無料〉と考えてしまうのもどうかと思いますが、そのときの僕は素直にそう思ったのです。
そんな考えに至ったのは、いまの僕がほとんどお金を持っていないことが関係しているのかもしれません。恥ずかしながら、僕はいまお金がなくて少々苦しんでいるのです。経営している三つの会社は現在利益をだすことができていません。それどころか、そのうちの一つは大赤字です。あえて隠さずに言いますが、かなり苦しい状況に追い込まれています。わずかにあった貯金も底をついてしまい、身の回りにあるものをメルカリで売ってなんとか凌いでいます。今の私は一円の重みを、ひしひしと感じている最中なのです。
そんな状況であることをここで披露して、同情を集めようとしているわけではありません。苦しいことには間違いありませんが、どこか楽しんでいる節もあるのです。つまり物を手放していくうちに、心が軽くなっていく楽しさを発見したのです。とても気持ちのよい作業でした。「手放してもいい」と思えるもの、「手放してはいけない」と思うもの。それらを振り分ける作業が、今後の自分がすべきことを示してくれているように思えました。こんな状況になってもなお手放すことができないもののなかにこそ、 “次のやりたいこと” があるように感じるのです。
会社がいくらかの利益を生んでいた時期には、大して必要のないものまでもを必要だと思い込んでいました。アクセサリーや洋服、高級レストランやホテル。なかには実際に必要だったものもあります。しかし、今になって考えてみれば、衝動的な欲に囚われて購入したものや経験がほとんどでした。己が肉体に湧き上がってくる欲望を扱いきれないうちに小金を持ってしまったがために、なにが必要で、何が不必要なのかがわからなくなってしまったのです。そんなことを今、身をもって学んでいます。
故郷の北見に帰ってきて思い出しました。本当に大切なことを。そして自然の素晴らしさを。自分にとって真に必要なものは初めから足元にあったのです。いわしくらぶを北見で始めてから東京、京都に店をつくりました。どれも街の中につくりました。しかし、次になにかをつくれるとしたら、それは山のなかにつくろうと思います。自然の厳しさも含めた素晴らしさを丸ごと受け取れる場所を。僕が故郷の北海道で得られたこの感覚を、感じられるような場所を。大きくなくていい。小さくてもいいから、飾らず本質的で、きれいではないが美しい場所を。窓の外に目をやれば季節を感じられて、暑い日には暑く、寒い日には寒く過ごせる場所。見た目のかっこよさだけなら必要ありません。それはハリボテです。実(じつ)が大事なんだと、今更気がつきました。最終的な場所がどこになるのかは、まだはっきりとわかりません。しかし、時がくれば向こうからやってくるでしょう。そんなもんです。
なんだかやっと、これからの生き方が見えてきたような気がしています。しばらくはそのための準備として、山や河川や野原でいろいろと試してみようと思います。それこそ無料のものを色々お借りして、やってみるつもりです。